天神さまの深いお話

北野天満宮と宝刀

〜太刀 鬼切丸(髭切)〜

北野天満宮と宝刀

北野天満宮には、現在約100振の刀剣が宝刀として納められています。御祭神菅原道真公(以下菅公)は、今は学問の神様としてつとに有名ですが、在りし日の菅公は、実は武道にも優れた人物であり、根本縁起こんぽんえんぎと称される《北野天神縁起絵巻》(承久本)には、学問をする菅公の姿だけでなく、弓を引く姿も描かれています。

図1 北野天神縁起絵巻 承久本 鎌倉時代 巻2 弓射の場面

菅公は、平安時代に御神託ごしんたくにより北野に御鎮座されたのち、皇室や藤原摂関家をはじめとする貴族だけでなく、室町幕府の足利家や、現在の御本殿を造営した豊臣家など多くの武士たちから篤い崇敬を受けてきました。そうした流れの中で、北野天満宮には多くの刀剣が奉納されてきました。
別けても加賀百万石で有名な前田家は、自身の祖先を菅原家とし、殊に篤い信仰を寄せられました。菅公の薨去から50年ごとに行われる萬燈祭の際には、必ず一振ずつ太刀を奉納され、それらは今も大切に収蔵されています。
当宮に所蔵される刀剣は、実際に戦いに使われ鎮魂の役割を当宮に期待されて奉納されたものから、もともと御神宝として奉納するため鍛えられたものまでさまざまです。武門からの信仰を物語るこれらの刀剣は、「渡唐天神像」が彫られた短刀、身幅が際立って広く分厚い堂々たる脇差、ともえ形・しずか形の長刀、沸き立つような刃紋が特徴的な刀(兼常)など形も用途もさまざまで、まさに百花繚乱の様相を呈しています。

太刀鬼切丸(髭切)

図2 重要文化財 太刀鬼切丸(髭切) 平安時代
図3 当宮御本殿前の渡辺綱奉納と伝わる燈籠

また『太平記』によるとこの太刀は、その後源頼朝ら源氏数名の手を経て新田義貞にったよしさだの帯びるところとなり、続いて義貞を討った斯波高経しばたかつねをへて大崎斯波家に伝わります。正平11年(1356年)斯波(最上もがみ兼頼かねよりが山形に入部した際帯同し、その後は子孫の最上家にて、代々家宝として所蔵されました。
元和8年(1622年)最上家は改易の沙汰となり、近江大森藩五千石に没落しましたが、その際も鬼切丸は秘蔵されました。郷土史家川崎浩良によりますと、参勤交代の際には鬼切丸もともに江戸・大森間を往復したといいます。道中、鬼切丸の評判はすさまじく、鬼切丸の下をくぐれば「おこり」(マラリア)にかからないといって、民衆は冥加みょうが金を出して我も我もと争って鬼切丸の箱の下をくぐることをためしとしたとの逸話が残っています。鬼切丸は、鬼切伝説に加えいつのころからかこのような厄除けの意味を持つ宝刀となっていきました。
こうして鬼切丸の名は世に知れ渡り、享保17年(1732)八代将軍徳川吉宗から上覧の沙汰があり、実際に実見されたといいます。また明治維新を経た明治3年には、明治天皇より請われてここ京都にて天覧に預かりました。
その後、最上家の衰退により鬼切丸が同家の手を離れた際、名家の末路と家宝の離散を憂えた当時の滋賀県令籠手田安定こてだやすさだ氏の呼びかけにより、最上家、そして有志者等が集まりこれを官幣中社北野神社へ奉納しました。一説には、最上家の宝刀鬼切丸と知らずに入手した持ち主は、夜な夜な現れる「最上に帰ろう」と叫ぶ刀の夢に恐れをなし、崇敬する北野天満宮への奉納を決めたといいます。
平安京の天門に位置し、菅公の怨霊を鎮めた御霊信仰・厄除けの社としても有名であった北野天満宮に御神宝として大切に納められ、以後鬼切丸は鎮まり、宝刀として現代へと伝わっています。

図4 鬼切丸奉納箱と奉納に尽力した有志一覧
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7時〜17時

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