菅公一千年萬燈祭に奉納された望月玉泉・玉渓親子による一対の花鳥図
明治に活躍した京都画壇の画家望月玉泉(1834−1913)による《梅花朧月図》とその息子で同じく京都画壇の画家であった玉渓(1874−1938)による《老松菊花図》。繊細な筆致の大変美しい対幅です。玉泉は、祖父も父も画家という望月派の絵師の家系に生まれました。その画風は円山派、四条派を折衷したものとも称され、繊細な山水画や花鳥画を得意としました。数々の万国博覧会に作品を出品し、受賞や政府のお買い上げの栄誉に預かっています。また明治37年(1905)には現在の人間国宝の前身にあたる制度である帝室技芸員に任ぜられました。京都府画学校(現在の京都市立芸術大学の前身にあたる)の設立に参画し、画塾を開くなど後進の育成にも尽力しました。玉渓も品の良い花鳥画を得意とする画家で、その実力の程は両者を並べて見て遜色ないことからも伺えます。
本作は、玉泉が筆致を極めた60代、玉渓が若き20代であった明治35年(1902)頃に描かれた作品です。玉渓は若いながらも、大変美しい松と菊を描いています。
軸としては、大画面の本紙の上下、一文字と呼ばれる表具の部分には、唐草とともに「菅公壱千年祭」の文字が描かれています。実はこの作品、明治35年(1902)菅公の薨去後千年にあたる萬燈祭(50年ごとに当宮で行われる式年大祭)にあたり、画家本人より奉納されたものなのです。
軸端は、木製でも象牙製でもなく、なんと京焼。大変めずらしい陶器製です。その絵付けもよく見ると、梅鉢紋に松竹の唐草をあしらい、ここにも「菅公壱千年祭」の文字が見られます。「菅公壱千年祭」とは、菅公がお亡くなりになって一千年目にあたる当宮最大のおまつり「萬燈祭」のことです。この祭に合わせて表具にまでこだわり、京都の工芸の粋を集めたまさにオリジナルの一対といえます。
梅は「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花…」の和歌に代表されるとおり、天神さまが愛したお花として有名ですが、松と菊にも天神さまと関係する逸話があります。松は北野天満宮の創建にあたり菅公より御託宣が下された際、「祀るべき場所に目印として一夜にして千本の松を生やそう」とおっしゃり、実際に北野の松原ができたという伝説の御神木です。また菊も、天神さまの愛したお花です。菊にまつわる漢詩や和歌も多く詠まれていますし、無実の罪により大宰府に左遷されてしまった際には、邸宅にあった菊の花をともに連れて九州に下ったとの伝承もあります。
千年祭には他にも多くの画家たちが作品を奉納しています。このように文芸の神に作品を捧げてさらなる上達を願うということが、日本の歴史上大変多くおこなわれていました。