北野天満宮について 

北野天満宮は、菅原道真公(菅公)を御祭神としておまつりする全国約1万2000社の天満宮・天神社の総本社です。古来「北野の天神さま」と親しまれ、入試合格・学業成就・文化芸能・災難厄除祈願のお社として幅広く信仰されています。

御祭神

菅原道真公

贈太政大臣正一位 菅原朝臣道真公

相殿 東座 中将殿(菅公御子息)

西座 吉祥女(菅公北の方)

御由緒

北野天満宮は、天神信仰発祥の社として今から千年あまり前の村上天皇天暦元年(947)、御神託(神様のお告げ)により平安京の天門(北西)にあたる北野の地に菅公をおまつりし創建されました。
その後、藤原氏による大規模な御社殿の造営があり、永延元年(987)に一條天皇の 勅使ちょくし (お使いのこと)が派遣され、国家の平安が祈念されました。この時、一條天皇より「北野天満大自在天神」の御神号を賜り、菅公は「天神さま」としておまつりされ、以後、寛弘元年(1004)の一條天皇の行幸(天皇陛下が直接お参りされること)をはじめ、代々皇室の御崇敬をうけ、国家国民を守護する霊験あらたかな神として崇められてきました。

やがて天正年間には、関白豊臣秀吉公が境内一帯の北野松原で北野大茶湯を催し、慶長年間には出雲阿国が京において初めてややこ踊り(歌舞伎踊り)を演じるなど、北野は日本文化発信の中心地として強く意識され、文化芸能の神社としても仰がれています。

江戸時代には、各地に読み書き算盤を教える寺子屋が普及し、その教室に菅公のお姿を描いた「御神影」が掲げられて、学業成就や武芸上達が祈られました。これがのちに「学問の神さま」「芸能の神さま」として人々に広く知られるようになった由縁のひとつです。

現在、全国各地には菅公をおまつりした「天神さん」はおよそ1万2000社が鎮座し、その多くは当宮から御霊を分けた神社であります。

現在の御本殿(国宝)は、豊臣秀頼公が慶長12年(1607)に造営されたもので八棟造と称し、神社建築の主流である権現造の原型となった桃山建築の代表的遺構です。中門は「三光門」と呼ばれ、後西天皇御宸筆(直筆)の勅額「天満宮」を掲げています。 また宝物としては「紙本著色北野天神縁起絵巻・承久本」(国宝)をはじめ、天神美術の殿堂として貴重な御神宝類、文化財を多数所蔵しています。

平安京の天門に位置する祓いと浄めの聖地、北野

かつて帝がおわした大極殿は、現在の京都御所より西方にあり、北野の地はその御所を中心とする京の都の守護をつかさどる四方(北東、北西、南東、南西)の北西である「天門」を護る大変重要な場所とされ、天地すべての神々「天神地祇」をおまつりした地主神社が祀られてきました。
また北野の地は、当宮創建以前より八百万の神々がまつられ、御代替わりの大嘗祭の折りには清めの儀式が行われたり、神饌調理を行う悠紀院・主基院が設けられたりするなど、様々な神事が執り行われてきた場所であったため、「祓いと浄めの聖地」と讃えられてきた場所なのです。

菅原道真公(菅公)について

北野天満宮の御祭神である菅原道真公(菅公)は、幼少の頃より学業に励み、情緒豊かな和歌を詠み、格調高い漢詩を作られるなど、優れた才能の持ち主でした。学者出身の政治家として卓越した手腕を発揮され、異例の出世を重ねられた菅公は、昌泰2年(899)右大臣の要職に任命され、左大臣藤原時平と並んで国家の政務を統括されます。ところが、突如藤原氏の策謀により、昌泰4年(901)大宰権帥だざいのごんのそち という役職を命じられ、九州に左遷されます。そして、そのわずか2年後、大宰府の配所にて悲しみの内に波乱の生涯を閉じられました。

菅公の逝去後、その清らかで誠実な人柄と晩年の不遇は、さまざまな伝説を生み、やがては「天神さま」と崇められ、現代に受け継がれる盛んな信仰へと展開します。

また「文道大祖・風月本主」と仰ぎ慕われた、学問の神さまとしての信仰は昔も今も変わることなく、人々の営みなかで受け継がれています。菅公の精神は「和魂漢才」の四文字に集約されるように、自国の歴史と文化に根差した確固とした誇りを持ちながら、他国の文化も受けいれる寛容さが特徴です。菅公が生涯一貫された「誠の心」は、今も日本人の心に生きつづけています。

北野天神縁起絵巻承久本
平安京の天門に位置する祓いと浄めの聖地、北野

[北野天神縁起絵巻 承久本]国宝。北野天満宮の草創の由来と、
その霊験の物語を集めた絵巻。鎌倉時代の作といわれる。

菅公の御神徳

菅公のご神徳は数えつくせませんが、主なものは次の通りです。


菅公にまつわる祭事

毎月25日(御祭神菅公の誕生日6月25日、薨去の2月25日に因む)のご縁日を始め、菅公ゆえんの祭事が長く続いています。

縁日

縁日

毎月25日は「天神さんの日」で知られる当宮のご縁日。菅公の御生誕日である6月25日とお亡くなりになられた2月25日に由来しています。参道には6時頃~21時頃まで露店が所狭しと立ち並び、日没からは境内のライトアップも行われ、およそ350基の石燈籠と250基の釣燈籠にあかりが灯されると、国宝の御本殿をはじめとする御社殿が美しく浮かび上がり、昼間とはまた違った幻想的な雰囲気の中で参拝・拝観いただけます。

梅花祭(2月25日)

梅花祭(2月25日)

菅公の祥月命日に行われる祭典で、900年余りの歴史があります。お米を蒸して大小2つの台に盛った「大飯」「小飯」や白梅・紅梅の小枝を挿した「紙立」という特殊な神饌を供え、菅公の御遺徳をしのびます。授与所では「紙立」に用いた玄米を「厄除玄米」として授与しています。

曲水の宴

曲水の宴

曲水の宴とは、庭を流れる小川に酒を入れた杯を流して、その杯が自分の前を通り過ぎる前に、題に即した詩歌を詠じるという雅な宴のことをいいます。菅公は、その高い文才を評価されて、幾度も宇多天皇主宰の曲水の宴に文人として招かれています。菅公は「和魂漢才」、すなわち日本古来の心と、伝来の新しい文化や学問の両方を兼ね備えることが必要であると説きました。その菅公の精神に学び、当宮の曲水の宴では和歌だけでなく漢詩も朗詠します。

明祭(4月20日)

明祭(4月20日)

御祭神菅公は、藤原氏の策謀により大宰府に左遷され、そのわずか2年後の延喜3年(909)2月25日に失意のもとお亡くなりになりました。その20年後の延喜23年4月20日、ようやく菅公の冤罪えんざいがめでたく晴れました。その喜びを明祭あけのまつりとして御神前に奉告する祭典を行います。

余香祭(10月29日)

余香祭(10月29日)

菅公が宮中の重陽ちょうようの宴で詩を詠まれ御衣を賜ったことを、1年後に大宰府で追想して詩を詠まれたことに由来する祭典です。長らく絶えていましたが大正時代に再興し、全国から寄せられた詩(献詠)を選出してその披露を行います。当日は御神前に黄菊、白菊を飾り、祭員・奉仕者は冠に小菊をかざして奉仕します。

開門時間

7時〜20時

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