はじめに―北野祭再興に向けて―
北野祭再興―令和の「北野神輿」製作へ
当宮では現在、令和9年(2027)に迎える菅公御神忌1125年半萬燈祭に向け、境内整備をはじめ、旧儀の復興やさまざまな調査研究活動を進めています。その中でも大きな柱の一つとして位置付けているのが、祭列や神輿渡御、御霊会をともなう「北野祭」の再興です。
平安の御代に始まり、中世には室町幕府の篤い保護のもと隆盛を極めた北野祭。荘厳な渡御列と御霊会をともなう勅祭として、祇園祭と並び称される洛中の大祭でした。しかし、応仁の乱によって途絶え、その後幾度となく再興が試みられたものの、往時の姿を取り戻すには至りませんでした。
その面影は、現在9月4日に斎行される例祭ならびに北野御霊会(令和2年、550年ぶりに再興)、そして毎年10月1日から5日まで行われる「北野祭―瑞饋奉饌」、通称「瑞饋祭」の渡御列に見ることができます。
北野祭のはじまり
北野祭は永延元年(987)に始まったとされ、このとき「天満天神」の勅号、すなわち朝廷に認可された正式な神の名が定められたと考えられています。
11世紀初頭には、朝廷の内蔵寮から官幣(供物)が奉られる公的な祭礼となり、「北野天神会」「御霊会」とも称されるようになりました。御霊会とは、あらぶる疫神や死者の怨霊を鎮めるための祭であり、北野祭は国家的な祭祀であるとともに、御霊を鎮める祭礼としての性格を帯びていきます。
永承元年(1046)には、後冷泉天皇母・藤原嬉子の国忌と重なるため、式日が8月5日から4日に改められ、以後、4日に官幣を奉り、5日に御霊会を行う祭礼となりました。
北野の神輿と神輿渡御
北野祭は、朝廷が主催する公的な祭祀であると同時に、平安時代後期には、御祭神を神輿にお遷しし、本社と西京にある御旅所との間を往復する神幸祭としての性格も有していました。
当時の神輿は二基あり、それぞれ大御前(御祭神は菅原道真公)、三所皇子(御祭神諸説あり)の神をお乗せしていました。華麗に飾られた神輿は、西京、大宿直の住民による鉾を先導に、伶人が楽を奏でる中、賑々しく渡御したと伝えられています。

北野祭と朝廷―禁裏駕輿丁が舁く神輿
北野祭を特徴づけるものの一つに、朝廷に所属する禁裏駕輿丁によって神輿が舁かれたことが挙げられます。
禁裏駕輿丁は普段、朝廷の四府(左右近衛府、左右兵衛府)に所属し、天皇行幸の際には、天皇がお乗りになる輿を舁く役目を担っていました。天皇の輿を奉じる人々が神社の神輿を担うという例は、数ある神社祭礼の中でも北野祭のみであったと考えられます。
なぜ禁裏駕輿丁が北野祭の神輿を舁いたのか、それを明確に示す史料は現在のところ確認されていません。一方で、当宮を支えた重要な膝下地域である西京に近衛府の下級官人が多く居住し、禁裏駕輿丁もその中に含まれていたためとする説や、北野祭が朝廷主催の祭礼であったことから、朝廷の官職である左右近衛府・左右兵衛府に所属する駕輿丁が召されたとする説があります。
三年一請会と西陣
北野祭には、もう一つ特筆すべき儀式がありました。「三年一請会」です。
10世紀半ばから始まったとされるこの儀式は、3年に1度、祭礼に用いる神輿を点検し、修理を要する箇所を確認したうえで、傷んだ部材を修復するものでした。神輿を修理すること自体が、神社の重要な儀式として定着していたのです。
三年一請会が最も安定して行われたのは、足利義満公が将軍となり、室町幕府が大きな勢力を誇った14世紀後半でした。義満公は当宮への崇敬篤く、領地を寄進するなど手厚い保護を加えており、三年一請会の安定した実施にも深く関わったものと考えられています。
西陣の染織技術に彩られた神輿
当宮の神輿を特徴づけるのは、その荘厳を彩った華麗な染織品です。
室町時代の史料によれば、神輿の堂を飾る御内帷子には牡丹唐草文を散らした綾織が用いられ、取り付けられる綱を覆う上包にも唐綾織が使われていました。さらに、彫りを施した錺金具も多用され、多種多様な織物や刺繍裂、金具によって装飾された神輿は、まさに京都工芸の粋を集めた工芸品の集合体というべきものでした。
こうした染織品を生産したのが、当宮に所属する大宿禰神人です。彼らは織物をもって朝廷に奉仕した織手たちの系譜を継ぎ、やがて後の西陣の織手たちへとつながっていきました。
三年一請会によって神輿の装飾が定期的に更新されたことは、染織や金工に携わる人々に継続的な製作の機会をもたらし、その技術を大きく発展させました。北野社の神輿は、京都を代表する産業である西陣機業の発展を支えた重要な柱の一つでもあったのです。

応仁・文明の乱と北野祭の中断
10世紀後半に成立した北野祭は、その後およそ4世紀にわたって発展を遂げました。しかし、応仁元年(1467)に勃発した応仁・文明の乱によって、当宮最大の後楯であった室町幕府が衰退し、祭礼を続けることが困難となります。
乱の最中、二基の神輿は「御構」(北野天満宮の北東、現在の京都御所周辺)に勧請された北野社へと避難しました。しかし近隣から火の手が上がり、御神体は辛うじて難を逃れたものの、神輿一基(三年一請神輿)はほぼ焼失しました。
その後、神輿については一定の再興がなされたとの記録が残されています。しかし、大乱を経て室町幕府という後ろ盾を失い、さらに北野社の統治機構も変容したことから、かつて偉容を誇った中世の北野祭は、ここに断絶することとなりました。
「北野神輿」再興―京都工芸の粋を結集して
令和の北野祭再興にあたり、当宮が目指すのは、応仁の乱によって失われる以前の中世の神輿の姿を、現代によみがえらせる「北野神輿」の再興です。
三年一請会の古記録をはじめ、絵巻物、現存する神輿古金具、同時代の遺構・遺物などを手掛かりとして、染織・金工品に彩られた唯一無二の「北野神輿」の製作を進めています。
令和6年秋には、神輿の躯体の一部となる京都の檜材を伐り出すとともに、10mを超える長柄用材として木曽檜を移送しました。躯体の製作は、金工・木工を専門とする京都社寺錺漆、題空鈴木組らの専門職人によって進められています。





令和7年3月25日には、組み上がった神輿の躯体を御神前にて清める「躯体清祓式」を執り行いました。


さらに同年10月23日には、草木染めを専門とする染司よしおか6代目吉岡更紗氏によって、紅花・苅安・藍などの天然染料を用いて染め上げられた絹糸を御神前に供え、「織初の清祓式」を執り行いました。現在は龍村美術織物が染織懸装品の制作を担っています。




令和9年、神輿渡御へ
各分野の専門職人によって制作が進められている「北野神輿」は、来る令和9年秋の神輿渡御に向け、令和9年1月25日に神輿躯体の組み上げと神輿装飾を行う予定です。
応仁の乱から五百有余年。失われた中世の神輿を令和の世によみがえらせることは、容易なことではありません。しかし、古記録や伝来の品々をひもとき、先人たちが培ってきた技と心を受け継ぎながら、京都工芸の粋を結集することで、その姿は今、再び形を現そうとしています。
西陣織に彩られ、金色の金具が煌めく、かつて「荘厳で華麗なり」と世に賞された芸術品のような神輿。その再興は、一基の神輿を新たに製作することにとどまるものではありません。
千年を超えて受け継がれてきた北野の信仰と祭礼、そしてそこに息づく京都の伝統と技を未来へとつなぐために――。当宮では、北野祭再興への大きな歩みとして、令和の「北野神輿」再興に取り組んでいます。