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| 本社(北野天満宮) | 御旅所(西ノ京御輿岡町) | |
|---|---|---|
| 1日 | 神幸祭(しんこうさい) | |
| 9:30 出御祭 13:00 行列出発→16:00 御旅所着 |
16:00 着御祭 (八乙女舞奉納) | |
| 2日 | 10:00 献茶祭 (表千家宗匠奉仕) | |
| 3日 | 15:00 甲御供奉饌 (七保会奉仕) | |
| 4日 | 還幸祭(かんこうさい) | |
| 17:00 着御祭 | 10:00 出御祭 13:00 行列出発→16:00 本社着 |
|
| 5日 | 15:30 后宴祭(ごえんさい) (八乙女舞奉納) |

京都の代表的な秋祭として知られるずいき祭は、村上天皇の御代(天慶9年~康保4年・西暦946~967)にはじまると伝えられ、御祭神菅原道真公が大宰府で彫られた木像を随行の西ノ京の神人(じにん)が持ち帰りお祀りし、秋の収穫時に野菜や穀物をお供えしたのが始まりという。
今日では、北野の神を 10月1日から10月4日まで西ノ京の御旅所へお迎えして「ずいき御輿」を奉り、本年の収穫に感謝の誠心を捧げる。
第一日目、10月1日には午前9時半から鳳輦(ほうれん)に[御霊]を移す出御祭が行われたあと午後1時導山をはじめ三基の鳳輦と松鉾他が本社を出御、宮司以下神職をはじめ氏子崇敬者らが供奉、約150人余が祭列を整え氏子区内を巡行して午後4時頃西ノ京の御旅所に到着、着御祭に引き続き氏子地域より選ぱれた女児による「八乙女舞(やおとめまい)」が奉納される(拝観自由)。鳳輦は還幸祭の4日迄ずいき御輿とともに御旅所に駐輦され、その間御旅所には多くの出店が連日午後10時頃まで軒を並べ祭り気分で賑う。二日目は御旅所で表千家宗匠による献茶祭、三日目には、西ノ京七保会による甲御供奉饌(かぶとのごくほうせん)行われる。こうして御旅所での三日間に亘る神事を終え、10月4日午前10時御旅所で出御祭が執り行われ、午後1時出御、牛に曳かれた御羽車も加わり祭礼の行列が氏子区内を巡行して午衝4時半頃本社に還御、午後5時還幸祭が行われる。5日には午後 3時半より后宴祭があり、拝殿前にて「八乙女舞]が奉納される(拝観自由〉。

西ノ京の神人により、ずいき御輿という野菜、乾物等で趣向をこらした絢欄華美な御輿が御旅所に奉られ、10月4日に巡行する。これはかって北野祭(例祭)にお供えとして奉られた野菜を、慶長の頃から一基の大型御輿として作り飾りつけるようになり、屋根はずいき芋(里芋の茎〕で葺き、神輿の各部はすき間もなく穀物や蔬菜(そさい)・湯葉(ゆば)・麩(ふ)などの乾物類で覆われている。
四隅にさがる見事な瓔珞(ようらく)は乾燥した金盞花(きんせんか)の花をびっしりとつけたもので、御輿の四面には、謡曲や昔話から採った人物の造り物などが取り付けられている。江戸時代には八基ほどが各町から出ていたが、今日では西ノ京の2基のみとなっている。
大永7年(1527)阿波の三好長基が都に攻め入った時、将軍足利義晴の管領細川高国は、これを桂川に迎え撃ったが、敗退した。ところがたまたま入洛していた、越前の守護職朝倉敏景は、これを聞きつけると、西ノ京の神人と協力して三好勢と戦い、長基を阿波に追い落とした。将軍義晴は、神人の功を賞し、3月3日・9月9日を吉例の日として北野天満宮に甲の御供を沙汰したという。以来神人は、年2度の御供を安楽寺一ノ保御供所にて調製し、献供してきたが、明治6年七保会の御供所が廃されたのに伴い中絶された。しかし、明治40年この由緒ある甲の御供の廃絶を惜しむ旧神人(七保会)の努力により復活し、毎年10月3日御旅所にて献供されるようになり今日に至っている。
※いずれも北野天満宮前下車すぐ